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第四話 生活指導

Autor: 海野雫
last update Data de publicação: 2026-03-04 19:00:14

 理人に管理されるようになって二週間。変わったのは、食事だけじゃなかった。

 肌の調子がいい。寝不足のくまが薄くなった。午後に襲ってくる眠気もない。理人に言われた通り、昼は野菜から食べるようにした。すると食後に頭がぼんやりしなくなった。血糖値の上がり方が違うのかもしれない。

 おかげで仕事も順調だった。残業はこのところしていないし、ミスもない。以前の自分が嘘みたいだ。

 そんな調子のいい日に限って、問題が起きる。

「夏目」

 モニターに集中していると、横から声をかけられた。顔を上げると、久我恒星が立っていた。同じ営業二課で、理人と同期。直より二つ年下だが、営業成績は課内トップだ。

「恒星か。どうした」

「これ、データ間違ってるぞ」

 久我が書類を直の前に置いた。共有フォルダにアップした提案資料だった。

「嘘。そんなはず……」

「去年のデータ使ってる。最新版に差し替えてくれって言われてなかったか」

 直は書類をひったくって確認した。確かに、数字が古い。去年度の納入実績がそのまま残っている。差し替えたつもりだったのに、古いファイルを上書きしてしまったらしい。

「……すまん。差し替え忘れてた」

「このデータで明日の朝イチ、クライアントにだすんだ。間違ったままだしたら会社の信用に関わる」

「わかってる。すぐ直す」

「頼むぞ」

 久我は短く言って、自分の席に戻っていった。怒っているわけではない。ただ淡々と事実を伝えて、修正を求めている。それが余計にきつかった。

 直は机の上の書類をかき分けながら、最新データの元ファイルを探した。見つからない。共有フォルダの中にあるはずだが、どのフォルダに入れたか思い出せない。デスクトップにも保存したはずなのに、ファイル名が似たものが並んでいて、どれが最新版かわからなくなっている。

「くそっ……」

 焦りが手の動きを鈍くする。落ち着け、と自分に言い聞かせるが、頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 体調もよくなり、仕事も順調で、俺はやれると思っていた。けれど結局、肝心なところで詰めが甘い。段取りが悪いのは、ずっと変わっていなかった。

 久我の席をちらりと見た。きれいに整頓されたデスク。ファイルはラベルで管理され、必要な書類はすぐ出てくるのだろう。同じ仕事をしていて、同じ営業二課にいる。それなのに、この差はなんなんだ。

 理人もそうだ。理人の机は久我と同じくらい整頓されている。二つ年下の後輩ふたりが当たり前にできていることが、自分にはできない。

「先輩」

 焦って書類を探していると、理人が横に来た。

「久我さんとの話、聞こえました。手伝います」

「……悪いな。俺のミスなのに」

「早く片付けたほうがいいでしょう。どの資料ですか」

 直が書類を見せると、理人はさっと目を通した。数秒で状況を把握したらしい。

「直近三年の納入実績ですね。俺がデータを集めます。先輩は数字の突き合わせをしてください」

「わかった」

「ファイルは共有フォルダの第三階層です。先輩、フォルダの整理もしたほうがいいですよ。名前の付け方にルールがないから、どれが最新版かわからなくなるんです」

 正論だった。なにも言い返せない。

 理人は自分の席に戻り、すぐに作業を始めた。モニターに向かう横顔は真剣だった。理人が自分の仕事を後回しにしてくれているのが、直にもわかった。理人にだって抱えている案件はあるはずだ。それなのに、迷いなく直の仕事を優先した。

 申し訳なさが胸を圧した。後輩に助けられてばかりだ。久我にミスを指摘され、理人にフォローされる。自分は一体なにをしているのか。

 けれど、今は落ち込んでいる場合じゃない。

 直は画面に向き直って、数字の確認に集中した。理人が集めてくれたデータと突き合わせて、差し替えていく。理人の作業が正確で速いおかげで、思ったより早く進んだ。

 定時前に資料が完成した。久我に渡すと、「助かる。ありがとう」と短く言って受け取ってくれた。

 午後六時。理人と並んでオフィスを出た。

 この時間に退勤するのが、最近は当たり前になっている。以前の終電生活が遠い昔のことのようだ。夕方の空はまだ明るかった。ビルの谷間に夕日が差し込んでいた。この景色を毎日見ていたはずなのに、最近まで気づかなかった。

 それにしても今日は忙しかった。今後はミスのないようにしないと、と自分に言い聞かせる。

 定時前に仕事が終わったのは、理人が手伝ってくれたからだ。

「今日は助かった。ありがとな」

「手が空いてたので」

「嘘つけ。自分の仕事もあっただろ」

「先輩のほうが優先順位が高かっただけです」

 理人は前を向いたまま、淡々と言った。

 優先順位が高い。自分の仕事を差し置いて、直のミスのフォローを優先する。それは管理の範囲なのか、それとも別のなにかなのか。聞きたかったが、理人の横顔はいつも通り読めなかった。

「なあ、神谷。お礼っていうか……。今週の土曜、飯でも行かね?」

 すると理人は、一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐにいつもの顔に戻った。

「いいですよ」

「じゃあ、行くとこ――」

「俺が決めます」

 被せるように言われた。

「……やっぱりそうなるのか」

「先輩に任せると、牛丼屋になるでしょう」

「……否定できねえ」

 理人の口元がかすかに動いた。

 土曜日の朝。先週理人に選んでもらった服を着て、出かける準備をしていた。十一時に待ち合わせだ。鏡の前に立つと、いつもよりましな自分がいた。服が違うだけでこんなに変わるのか。

 インターホンが鳴った。

 モニターを確認すると、理人が立っていた。まだ十時前だ。

「お、おい。早くないか? まだ一時間あるだろ。それに待ち合わせ場所はうちじゃねえぞ」

 玄関を開けると、理人がエコバッグを持って立っていた。パンパンに膨らんでいる。

「おはようございます。予定変更です」

「……は?」

「今日は先輩の家で過ごします」

 直が止める間もなく、理人は靴を脱いで上がり込んだ。部屋の中を一瞬で見渡して、目を細めた。

「……汚いですね」

「くるって言ってなかっただろ。片付ける暇なんて――」

「先輩、普段から片付ける暇はあるはずです。やらないだけですよね」

「…………」

 返す言葉がなかった。

「掃除します。見られたくないものがあれば隠してください」

「そんなのねえよ」

「では始めます」

 理人は食材を冷蔵庫に入れると、腕をまくった。エコバッグの底からゴミ袋まで出てきた。最初から掃除するつもりで来たのだ。

 床に散らばっている充電器、脱ぎっぱなしの服、ゴミ箱から溢れたコンビニの袋。理人は黙々とそれらを拾い、分別していった。捨てるものとそうでないものを迷いなく仕分けていく手際に、直はただ突っ立って見ていることしかできなかった。

「掃除機借ります」

「あ、ああ……」

 床が見えるようになると、理人は掃除機をかけ始めた。埃がひどかったのか、部屋の空気が白っぽくなった。直が窓を開けると、初夏の風が吹き込んでカーテンを揺らした。

 洗濯機も回された。散らばっていた服がかごに集められ、放り込まれていく。

 二時間で、部屋は見違えた。

 ゴミ袋が二つになった。雑誌は紐で括られて玄関に積まれた。床にものがない。こんなに広い部屋だったのかと、自分の部屋なのに驚いた。窓から差し込む光が床に四角い影を落としている。この部屋に引っ越してきたとき、こんな光が入っていたことを、今さら思いだした。

「……ありがとう、神谷」

「管理の範囲です」

 理人は手を洗いながら、当然のように言った。

 結局、外出の予定は掃除と洗濯で潰れた。

「そうなると思って、食材を買ってきたんです」

 理人が目を細めた。読まれていた。最初から掃除する前提で、外出しない前提で、食材を持ってきていたのだ。

「お前、なんていうか……先のこと読みすぎだろ」

「先輩が予測しやすいだけです」

「……それ、褒めてねえだろ」

 理人はキッチンに立って、夕食を作り始めた。狭い1Kのキッチンは調理器具も限られている。フライパンが一つと、鍋が一つ。包丁は買ったまま使った形跡がほとんどない。

 それでも理人は迷いなく動いた。まな板の上でトントンとリズムよく野菜を刻み、ニンニクの香りがオリーブオイルと一緒に立ちのぼる。狭いキッチンなのに、理人が立つとちゃんと台所に見えた。

 その後ろ姿を、ソファに座ってぼんやり眺めた。

 梨沙の声が脳内をかすめた。「まるで彼女じゃん」。

 いや、違う。管理されてるだけだ。

 でも、掃除と洗濯をしてもらい、食事まで作ってもらっている。仕事を手伝ってくれたお礼に食事に誘ったはずなのに、逆に世話されっぱなしだ。

「なんか手伝うぞ」

「座っていてください」

「でも、俺が飯奢るって言ったのに、逆に作らせて……」

「管理の範囲です。気にしないでください」

 引き下がるしかなかった。

 出来上がったのは、ベーコンとナスのトマトパスタとサラダ、野菜たっぷりのスープだった。ローテーブルに並べると、掃除で片付いた部屋と相まって、まるで別の家に来たようだった。

「うまそ……」

「どうぞ」

 パスタを口に入れた。トマトの酸味にニンニクとベーコンの旨味が絡んで、簡単な材料なのにちゃんとうまい。スープも、冷蔵庫にあった野菜と買ってきた食材を合わせたのだろう。この短時間でここまで作れるのか。

「……うまいな。これ、俺の台所で作ったとは思えねえ」

「道具がもう少しあると、もっとちゃんとしたものが作れます」

「それは俺に料理しろってことか?」

「いえ。俺が使うためです」

 さらりと言われた。つまり、また作りにくる前提なのだ。

 食べながら、理人がスマートフォンを取り出した。

「先輩、入れてほしいアプリがあります」

「アプリ?」

「スケジュール共有アプリです」

「共有……って、誰と」

「俺とです。仕事とプライベートの予定を共有してください」

「……まじか」

「先輩は自分でスケジュール管理ができてないでしょう。今回のミスもそうです。共有してくれれば、俺がフォローできます」

 今回の資料ミスを持ち出されると、反論できなかった。

 直はスマートフォンを手に取り、理人に言われたアプリをダウンロードした。理人からの共有リクエストを承認すると、すでにいくつかの予定が入っていた。来週の火曜に「提案書締切」、木曜に「クライアント訪問」、土曜に「買い物」。仕事の締切まで把握されている。

「……もう入れてあるのかよ」

「先輩の仕事の予定は把握してますから」

「いつ調べたんだ」

「普段の会話と、共有フォルダのスケジュール表です」

 そこまで見ているのか。もう驚かない。この男はそういう男だ。

 複雑な気持ちにはなる。プライベートの予定まで共有するのは、普通の先輩後輩の関係じゃない。けれど、今回の資料ミスを思いだすと、自分ひとりではどうにもならないことも事実だった。

 食事が終わり、理人が手際よく片付けをした。食器を洗い、シンクを拭き、ゴミをまとめる。なにからなにまで世話になりっぱなしだった。

「今日はありがとな。掃除も飯も」

「いえ」

 理人が靴を履きかけて、こちらを向いた。

「先輩。合鍵をください」

「……は?」

「この部屋の合鍵です」

 直は固まった。

「いや……さすがにそれは」

「掃除も食事も、先輩がいないとできないんです。鍵があれば、先輩の都合を気にせず管理できます」

「都合を気にせずって……。勝手に入るのか?」

「必要なときだけです」

「いや、でも……」

「先輩」

 理人がまっすぐこちらを見た。

「俺は先輩の生活をきちんと管理したいんです。鍵がないと、それができません」

 静かな声だった。命令でも懇願でもない。ただ、揺るがない意志があった。

 直は迷った。他人に合鍵を渡すなんて、今まで一度もなかった。付き合っていた彼女にだって、渡さなかった。

 けれど理人の目を見ていると、断る言葉が出てこなかった。

「……変なことすんなよ」

「しません」

 直はキーケースからスペアキーを外して、理人に渡した。理人はそれを受け取って、ポケットに入れた。大事にしまうでもなく、無造作に。まるで、最初から自分のものだったかのように。

「それでは、また」

 理人が帰った。

 ドアが閉まると、人の気配が一気に消えた。さっきまで理人がいたキッチンに、まだかすかに食事の匂いが残っている。

 きれいになった部屋は、広かった。

 直はスペアキーがなくなったキーケースを見つめた。

 彼女にも渡さなかった鍵を、後輩に渡した。

 管理の一環。それはわかっている。合理的な理由もある。けれど、鍵を渡した瞬間、なにかが決定的に変わった気がした。

 ――なんで、断れなかったんだろう。

 窓の外は、もう暗くなっていた。

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  • 気づいたら後輩に飼われてた   第二十四話 執着の理由

     理人はしばらく視線をさまよわせていた。直の目を見ては逸らし、また見た。なにか迷っているのか、覚悟を決めかねているのか。 直は理人の肩を掴んだまま、手に力を込めた。 こわい。理人の口からなにが出てくるのかが、こわい。七年間隠していたことを聞くのが、こわい。七年間隠していたことを聞く。それは、理人と直の関係の土台をひっくり返すかもしれない。管理だと思っていたものが、まったく別のものだったと知ることになるかもしれない。 けれど、聞かなければならない。「理人」 直は再び名前を呼んだ。緊張で声がかすれた。 公園を風が吹き抜けた。木々が揺れて、葉擦れの音がした。夕暮れの光が弱まりはじめている。 理人は、心を決めたように直を見た。まっすぐに。あの目だ。合鍵を返そうとしたときの目。路地裏でキスをしたときの目。エレベーターの中で見た目。何度も見た、感情を閉じ込めきれない目。けれど今は、閉じ込めようとしていなかった。蓋を開けようとしている目だった。「……話します」「うん」 直は理人の肩から手を離した。理人が話しやすいように。 理人は膝の上で手を強く組んだ。関節が白くなっていた。しばらく黙って、それから口を開いた。「俺が初めて先輩に会ったのは……そのパンフレットの、学園祭のときでした」 静かな声だった。けれど、かすかに震えていた。「俺は……人付き合いが得意じゃなくて。大学に入っても友達は少なかったです。その年の秋に、数少ない友達に誘われて、明正大学の学園祭に行きました。友達の彼女がそこに通っていたので」「……うん」「しばらく一緒に回ってたんですけど、途中で友達が彼女と合流して。俺はひとりになりました」 理人がそこで言葉を切った。息を吐いた。当時の孤独を思い出しているような間だった。「帰ろうと思いました。けど、笑い声の絶えない模擬店が近くにあって。気になって、近づいたんです」

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