FAZER LOGIN理人に管理されるようになって二週間。変わったのは、食事だけじゃなかった。
肌の調子がいい。寝不足のくまが薄くなった。午後に襲ってくる眠気もない。理人に言われた通り、昼は野菜から食べるようにした。すると食後に頭がぼんやりしなくなった。血糖値の上がり方が違うのかもしれない。
おかげで仕事も順調だった。残業はこのところしていないし、ミスもない。以前の自分が嘘みたいだ。
そんな調子のいい日に限って、問題が起きる。
◆
「夏目」
モニターに集中していると、横から声をかけられた。顔を上げると、久我恒星が立っていた。同じ営業二課で、理人と同期。直より二つ年下だが、営業成績は課内トップだ。
「恒星か。どうした」
「これ、データ間違ってるぞ」
久我が書類を直の前に置いた。共有フォルダにアップした提案資料だった。
「嘘。そんなはず……」
「去年のデータ使ってる。最新版に差し替えてくれって言われてなかったか」
直は書類をひったくって確認した。確かに、数字が古い。去年度の納入実績がそのまま残っている。差し替えたつもりだったのに、古いファイルを上書きしてしまったらしい。
「……すまん。差し替え忘れてた」
「このデータで明日の朝イチ、クライアントにだすんだ。間違ったままだしたら会社の信用に関わる」
「わかってる。すぐ直す」
「頼むぞ」
久我は短く言って、自分の席に戻っていった。怒っているわけではない。ただ淡々と事実を伝えて、修正を求めている。それが余計にきつかった。
直は机の上の書類をかき分けながら、最新データの元ファイルを探した。見つからない。共有フォルダの中にあるはずだが、どのフォルダに入れたか思い出せない。デスクトップにも保存したはずなのに、ファイル名が似たものが並んでいて、どれが最新版かわからなくなっている。
「くそっ……」
焦りが手の動きを鈍くする。落ち着け、と自分に言い聞かせるが、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
体調もよくなり、仕事も順調で、俺はやれると思っていた。けれど結局、肝心なところで詰めが甘い。段取りが悪いのは、ずっと変わっていなかった。
久我の席をちらりと見た。きれいに整頓されたデスク。ファイルはラベルで管理され、必要な書類はすぐ出てくるのだろう。同じ仕事をしていて、同じ営業二課にいる。それなのに、この差はなんなんだ。
理人もそうだ。理人の机は久我と同じくらい整頓されている。二つ年下の後輩ふたりが当たり前にできていることが、自分にはできない。
◆
「先輩」
焦って書類を探していると、理人が横に来た。
「久我さんとの話、聞こえました。手伝います」
「……悪いな。俺のミスなのに」
「早く片付けたほうがいいでしょう。どの資料ですか」
直が書類を見せると、理人はさっと目を通した。数秒で状況を把握したらしい。
「直近三年の納入実績ですね。俺がデータを集めます。先輩は数字の突き合わせをしてください」
「わかった」
「ファイルは共有フォルダの第三階層です。先輩、フォルダの整理もしたほうがいいですよ。名前の付け方にルールがないから、どれが最新版かわからなくなるんです」
正論だった。なにも言い返せない。
理人は自分の席に戻り、すぐに作業を始めた。モニターに向かう横顔は真剣だった。理人が自分の仕事を後回しにしてくれているのが、直にもわかった。理人にだって抱えている案件はあるはずだ。それなのに、迷いなく直の仕事を優先した。
申し訳なさが胸を圧した。後輩に助けられてばかりだ。久我にミスを指摘され、理人にフォローされる。自分は一体なにをしているのか。
けれど、今は落ち込んでいる場合じゃない。
直は画面に向き直って、数字の確認に集中した。理人が集めてくれたデータと突き合わせて、差し替えていく。理人の作業が正確で速いおかげで、思ったより早く進んだ。
定時前に資料が完成した。久我に渡すと、「助かる。ありがとう」と短く言って受け取ってくれた。
◆
午後六時。理人と並んでオフィスを出た。
この時間に退勤するのが、最近は当たり前になっている。以前の終電生活が遠い昔のことのようだ。夕方の空はまだ明るかった。ビルの谷間に夕日が差し込んでいた。この景色を毎日見ていたはずなのに、最近まで気づかなかった。
それにしても今日は忙しかった。今後はミスのないようにしないと、と自分に言い聞かせる。
定時前に仕事が終わったのは、理人が手伝ってくれたからだ。
「今日は助かった。ありがとな」
「手が空いてたので」
「嘘つけ。自分の仕事もあっただろ」
「先輩のほうが優先順位が高かっただけです」
理人は前を向いたまま、淡々と言った。
優先順位が高い。自分の仕事を差し置いて、直のミスのフォローを優先する。それは管理の範囲なのか、それとも別のなにかなのか。聞きたかったが、理人の横顔はいつも通り読めなかった。
「なあ、神谷。お礼っていうか……。今週の土曜、飯でも行かね?」
すると理人は、一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐにいつもの顔に戻った。
「いいですよ」
「じゃあ、行くとこ――」
「俺が決めます」
被せるように言われた。
「……やっぱりそうなるのか」
「先輩に任せると、牛丼屋になるでしょう」
「……否定できねえ」
理人の口元がかすかに動いた。
◆
土曜日の朝。先週理人に選んでもらった服を着て、出かける準備をしていた。十一時に待ち合わせだ。鏡の前に立つと、いつもよりましな自分がいた。服が違うだけでこんなに変わるのか。
インターホンが鳴った。
モニターを確認すると、理人が立っていた。まだ十時前だ。
「お、おい。早くないか? まだ一時間あるだろ。それに待ち合わせ場所はうちじゃねえぞ」
玄関を開けると、理人がエコバッグを持って立っていた。パンパンに膨らんでいる。
「おはようございます。予定変更です」
「……は?」
「今日は先輩の家で過ごします」
直が止める間もなく、理人は靴を脱いで上がり込んだ。部屋の中を一瞬で見渡して、目を細めた。
「……汚いですね」
「くるって言ってなかっただろ。片付ける暇なんて――」
「先輩、普段から片付ける暇はあるはずです。やらないだけですよね」
「…………」
返す言葉がなかった。
「掃除します。見られたくないものがあれば隠してください」
「そんなのねえよ」
「では始めます」
理人は食材を冷蔵庫に入れると、腕をまくった。エコバッグの底からゴミ袋まで出てきた。最初から掃除するつもりで来たのだ。
床に散らばっている充電器、脱ぎっぱなしの服、ゴミ箱から溢れたコンビニの袋。理人は黙々とそれらを拾い、分別していった。捨てるものとそうでないものを迷いなく仕分けていく手際に、直はただ突っ立って見ていることしかできなかった。
「掃除機借ります」
「あ、ああ……」
床が見えるようになると、理人は掃除機をかけ始めた。埃がひどかったのか、部屋の空気が白っぽくなった。直が窓を開けると、初夏の風が吹き込んでカーテンを揺らした。
洗濯機も回された。散らばっていた服がかごに集められ、放り込まれていく。
二時間で、部屋は見違えた。
ゴミ袋が二つになった。雑誌は紐で括られて玄関に積まれた。床にものがない。こんなに広い部屋だったのかと、自分の部屋なのに驚いた。窓から差し込む光が床に四角い影を落としている。この部屋に引っ越してきたとき、こんな光が入っていたことを、今さら思いだした。
「……ありがとう、神谷」
「管理の範囲です」
理人は手を洗いながら、当然のように言った。
◆
結局、外出の予定は掃除と洗濯で潰れた。
「そうなると思って、食材を買ってきたんです」
理人が目を細めた。読まれていた。最初から掃除する前提で、外出しない前提で、食材を持ってきていたのだ。
「お前、なんていうか……先のこと読みすぎだろ」
「先輩が予測しやすいだけです」
「……それ、褒めてねえだろ」
理人はキッチンに立って、夕食を作り始めた。狭い1Kのキッチンは調理器具も限られている。フライパンが一つと、鍋が一つ。包丁は買ったまま使った形跡がほとんどない。
それでも理人は迷いなく動いた。まな板の上でトントンとリズムよく野菜を刻み、ニンニクの香りがオリーブオイルと一緒に立ちのぼる。狭いキッチンなのに、理人が立つとちゃんと台所に見えた。
その後ろ姿を、ソファに座ってぼんやり眺めた。
梨沙の声が脳内をかすめた。「まるで彼女じゃん」。
いや、違う。管理されてるだけだ。
でも、掃除と洗濯をしてもらい、食事まで作ってもらっている。仕事を手伝ってくれたお礼に食事に誘ったはずなのに、逆に世話されっぱなしだ。
「なんか手伝うぞ」
「座っていてください」
「でも、俺が飯奢るって言ったのに、逆に作らせて……」
「管理の範囲です。気にしないでください」
引き下がるしかなかった。
出来上がったのは、ベーコンとナスのトマトパスタとサラダ、野菜たっぷりのスープだった。ローテーブルに並べると、掃除で片付いた部屋と相まって、まるで別の家に来たようだった。
「うまそ……」
「どうぞ」
パスタを口に入れた。トマトの酸味にニンニクとベーコンの旨味が絡んで、簡単な材料なのにちゃんとうまい。スープも、冷蔵庫にあった野菜と買ってきた食材を合わせたのだろう。この短時間でここまで作れるのか。
「……うまいな。これ、俺の台所で作ったとは思えねえ」
「道具がもう少しあると、もっとちゃんとしたものが作れます」
「それは俺に料理しろってことか?」
「いえ。俺が使うためです」
さらりと言われた。つまり、また作りにくる前提なのだ。
食べながら、理人がスマートフォンを取り出した。
「先輩、入れてほしいアプリがあります」
「アプリ?」
「スケジュール共有アプリです」
「共有……って、誰と」
「俺とです。仕事とプライベートの予定を共有してください」
「……まじか」
「先輩は自分でスケジュール管理ができてないでしょう。今回のミスもそうです。共有してくれれば、俺がフォローできます」
今回の資料ミスを持ち出されると、反論できなかった。
直はスマートフォンを手に取り、理人に言われたアプリをダウンロードした。理人からの共有リクエストを承認すると、すでにいくつかの予定が入っていた。来週の火曜に「提案書締切」、木曜に「クライアント訪問」、土曜に「買い物」。仕事の締切まで把握されている。
「……もう入れてあるのかよ」
「先輩の仕事の予定は把握してますから」
「いつ調べたんだ」
「普段の会話と、共有フォルダのスケジュール表です」
そこまで見ているのか。もう驚かない。この男はそういう男だ。
複雑な気持ちにはなる。プライベートの予定まで共有するのは、普通の先輩後輩の関係じゃない。けれど、今回の資料ミスを思いだすと、自分ひとりではどうにもならないことも事実だった。
◆
食事が終わり、理人が手際よく片付けをした。食器を洗い、シンクを拭き、ゴミをまとめる。なにからなにまで世話になりっぱなしだった。
「今日はありがとな。掃除も飯も」
「いえ」
理人が靴を履きかけて、こちらを向いた。
「先輩。合鍵をください」
「……は?」
「この部屋の合鍵です」
直は固まった。
「いや……さすがにそれは」
「掃除も食事も、先輩がいないとできないんです。鍵があれば、先輩の都合を気にせず管理できます」
「都合を気にせずって……。勝手に入るのか?」
「必要なときだけです」
「いや、でも……」
「先輩」
理人がまっすぐこちらを見た。
「俺は先輩の生活をきちんと管理したいんです。鍵がないと、それができません」
静かな声だった。命令でも懇願でもない。ただ、揺るがない意志があった。
直は迷った。他人に合鍵を渡すなんて、今まで一度もなかった。付き合っていた彼女にだって、渡さなかった。
けれど理人の目を見ていると、断る言葉が出てこなかった。
「……変なことすんなよ」
「しません」
直はキーケースからスペアキーを外して、理人に渡した。理人はそれを受け取って、ポケットに入れた。大事にしまうでもなく、無造作に。まるで、最初から自分のものだったかのように。
「それでは、また」
理人が帰った。
ドアが閉まると、人の気配が一気に消えた。さっきまで理人がいたキッチンに、まだかすかに食事の匂いが残っている。
きれいになった部屋は、広かった。
直はスペアキーがなくなったキーケースを見つめた。
彼女にも渡さなかった鍵を、後輩に渡した。
管理の一環。それはわかっている。合理的な理由もある。けれど、鍵を渡した瞬間、なにかが決定的に変わった気がした。
――なんで、断れなかったんだろう。
窓の外は、もう暗くなっていた。
まるで太陽のような人だと思った。◆ 俺には友達が少ない。 小学校のころからずっとそうだった。人見知りが強く、自分から話しかけることができない。話しかけてもらっても、なにを話せばいいのかわからず、黙ってしまう。表情が乏しいとよく言われた。怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。ただ、顔の筋肉がうまく動かないだけだ。 中学、高校と進んでも変わらなかった。クラスに馴染めず、休み時間はひとりで本を読んでいた。話しかけてくれる人がいなかったわけではない。けれど、会話が続かない。相手が気まずそうな顔をするのを見て、申し訳なくなって、自分から距離を置いてしまう。その繰り返しだった。 大学に入っても同じだった。講義のある日は大学に行き、終わればすぐに帰る。サークルにも入らなかった。入りたい気持ちはあった。けれど、あの輪の中に飛び込む勇気がなかった。 そんな俺にも、数えるほどだが友達はいた。同じ学科の佐々木という男が、入学初日に隣の席に座って「よろしくな」と話しかけてきた。俺が黙っていても気にしない男だった。沈黙を苦にしないタイプで、それが俺には楽だった。 大学一年の秋。その佐々木に「学園祭に一緒に行かないか?」と誘われた。「学園祭?」「明正大学の。彼女がそこに通ってるんだ。学園祭に来てほしいって言われてさ」「……俺が行っても邪魔じゃないか」「邪魔なわけねえだろ。ひとりで行くのもさびしいし」 断る理由もなかった。他の大学に行く機会なんてめったにない。それに、佐々木に誘われて断るのは申し訳ない。数少ない友達のひとりだ。 十月の土曜日。明正大学の学園祭に行った。 キャンパスは人で溢れていた。模擬店が並び、あちこちから音楽や笑い声が聞こえてくる。色とりどりの看板や幟がはためいている。楽しそうだった。けれど、俺にはその楽しさに入っていけない感覚があった。いつもそうだ。人が楽しんでいる場所にいると、自分だけがガラス一枚向こう側にいるような気持ちになる。見えているのに、そこに触れられない。 佐々木とふたりで回った。焼きそばを買って、たこ焼きを買って、ステージでバンドの演奏を聴いた。佐々木は楽しそうだった。俺は佐々木の横を黙ってついて歩いていた。 しばらくすると、佐々木の彼女がやってきた。「りっちゃーん!」と手を振りながら駆けてくる。佐々木の顔がぱっと明るくな
朝起きると、隣に理人が眠っていた。 ――よかった……。夢じゃなかった。 隣ですうすうと寝息を立てている理人を見て、ほっとした。昨日のことが、夢のように感じられたからだ。あんなに大切に抱かれるなんて、思ってもみなかった。思い出しただけでも、カッと頬に熱がこもる。 狭いシングルベッドに大人の男がふたり。けれどちっとも狭く感じないのは、理人が直をやさしく抱き寄せて眠っているからだ。 鼻先がくっつきそうな距離で理人の顔をじっと見つめる。 長いまつ毛が朝日を浴びて、頬に影を落としていた。起きているときはキリッとした印象だが、眠っているときはふんわりとやわらかい印象だ。「もう、俺から離れるな」 直は小さくつぶやいて、理人の額にキスを落とした。「はい。もうどこにもいきません」 急に理人が目を開けて、心臓が跳ねた。「お、お前っ! 起きてたのかよ……」「直が俺のこと見てくれてたんで、寝たふりしてました」「ば、ばかっ! 恥ずかしいだろ」「なんでですか? 俺はうれしいです」 理人が直を包んでいる腕に力を入れて、ぎゅっと抱きしめた。「もう離れないし、離してあげません」「そんなの……俺だって同じだよ」 上目遣いで理人を見ると、目が合った。まだ信じられない。後輩だった男と、こんな関係になっているなんて。恥ずかしさが抜けきらなくて、まるで初めて恋をしているようだった。 いや、実際に初めての恋なのだ。今まで本気で誰かを好きになったことがなくて、理人が初めて本気で好きになった相手なのだから。 お互いに見つめ合うと、自然と唇が重なった。お互いの想いを確かめるキスだった。 理人がベッドから身体を起こした。「じゃあ、朝ごはん作りますね」「おう。じゃあ俺も手伝う」「直は座って――」 直は理人の口を指先で塞いだ。「おい、昨日俺
理人が出ていって、どれくらい時間が経っただろう。 散らかった部屋の中で、直はひとり座っていた。理人がさっき脇に寄せてくれたテーブルの上を見つめている。コーヒーの匂いが残っている。理人の匂いが残っている。 好きだって言われた。「好きです。先輩のことが。ずっと。これからも」。あの声は本物だった。震えていて、かすれていて、七年分の重さがこもっていた。 なのに去っていった。 直には理人の行動が理解できなかった。好きなのに離れる。覚悟があるのに泣きそうな顔をしている。近づかないと言いながら、わざわざ大阪から東京まで来ている。全部、矛盾している。 けれど。 去り際の理人の顔を思い出した。あの表情。目が潤んで、唇が震えて、背中が丸くなって。あれは、離れたい人間の顔じゃなかった。離れたくないのに、離れなければいけないと思い込んでいる顔だった。 理人はこわいのだ。 管理という枠組みを外したら、自分がどうすればいいのかわからない。直のそばにいる方法が、管理以外にわからない。管理を手放したら、自分はただの執着していた後輩に戻ってしまう。そう思い込んでいる。 ――馬鹿だな、あいつ。 じゃあ、自分はどうだ。 直は管理される側はもう嫌だと言った。対等に立ちたいと言った。それは、理人から世話を焼かれるのが嫌なのではない。自分も理人になにかをしてやりたいと思ったからだ。 今までは彼女に世話を焼かれるばかりだった。自分から誰かに尽くしたいと思ったことなんてなかった。理人が初めてだ。理人のために弁当を作りたいと思った。理人の部屋を掃除したいと思った。理人が疲れて帰ってきたとき、あたたかいものを用意して待っていたいと思った。 世話を焼きたい。その気持ちの正体が、今ならわかる。 愛おしいから、大切だから、大事にしたいから——世話を焼きたいのだ。 だから理人は直のために毎日弁当を作ってくれたのだ。直の好きな味付けの、直の好きな献立で。直がくつろげるように家を掃除してくれた。体の疲れが取れるように、バランスの取れた食事を作り置きしてくれた。全
大阪で自分の気持ちを全部伝えた。 好きだと言った。対等に立ちたいと言った。管理じゃなくて、と。直にできることは全部やった。あとは、理人の答えを待つだけだ。そう思っていた。 けれど理人からは「考えさせてください」と言われた。返事は保留になった。拒絶ではないが、受け入れてもらったわけでもない。よろよろと公園の暗がりに消えていった理人の背中が、まだ目に焼きついている。 東京に戻ると、水城や梨沙が心配そうにこちらを見ていた。けれど、なにも聞いてこなかった。直の表情を見て、察したのだろう。聞かないでいてくれるやさしさが、逆にこたえた。 待つと決めたのは自分だ。七年待たせた。今度は自分が待つ番だ。 けれど、待つのはこんなにもつらいものなのだろうか。朝起きて、スマートフォンを見る。通知はない。仕事に行く。昼休み、スマートフォンを見る。通知はない。帰宅して、また見る。ない。その繰り返しが、毎日続いた。 直が大阪を訪れてから二週間が経った。理人からの連絡は一通のメッセージも、一本の電話もなかった。 もう、このまま終わるのだろうか。 不安が押し寄せてきた。仕事をしていても集中できない。もう無理なのかもしれない。直の告白が、逆に理人を追い詰めてしまったのではないか。「管理はいらない。対等にいたい」。あの言葉が、理人にとっては拒絶に聞こえたのかもしれない。直は前に進むつもりで言った。けれど理人にとっては、居場所を奪われたように感じたのかもしれない。 だとしたら、直はまた間違えたのだろうか。距離を置こうと言ったときと同じように。良かれと思ってしたことが、裏目に出る。直はいつもそうだ。 たった二週間なのに、もう何年も待っているような感覚だった。 理人は七年も待っていた。その間、ずっとひとりで。直のことを想いながら、声をかけられない距離で。好きだと言えない場所で。そう考えると、気が遠くなった。直は二週間で音を上げかけている。理人は七年間、一度も弱音を吐かなかった。その忍耐力と、その孤独に、今さらながら胸が痛んだ。 考えても答えは出なかった。理人の気持ちは理人にしかわからない。直にでき
直は何度、自分に「逃げるな」と言い聞かせただろうか。 距離を置こうと自分から言い出したのに、理人に冷たくされるとつらくて泣いた。水城に背中を押され、梨沙に問いかけられ、相沢に励まされて、ようやくここまで来た。そして理人の七年分の告白を聞いた今、今度は自分が伝える番だ。 自分のことなのに、他人に背中を押されないと前に進めない。情けないし、みっともない。二十七にもなって、なおさら情けない。 けれど、直は会社を半日休んで新幹線に乗り、大阪までやってきたのだ。今まで来たことのない街に、理人に会うためだけに。それだけは、自分の意志だ。水城に言われたからでも、梨沙に促されたからでもない。理人に会いたかった。自分の言葉で伝えたかった。ここまでの道のりを、自分の足で歩いてきた。 ここには水城も相沢も梨沙もいない。背中を押してくれる人は誰もいない。この公園のベンチには、直と理人のふたりだけだ。 自分の足で前に進まなければいけない。自分の言葉で伝えなければいけない。 理人も七年間の想いを伝えてくれた。学園祭のこと。冬の夜のこと。SNSのこと。入社の理由。全部、さらけだしてくれた。あの理人が。感情を表に出さない理人が。「管理です」の一言で全部を隠してきた理人が。直の前で、七年分の蓋を開けてくれた。 本当は言うつもりなどなかったかもしれない。「答えはいりません。知ってほしかっただけです」と言って立ち去ろうとした。直が引き止めたのだ。 だから今度は自分の番だ。理人がさらけだしてくれた分、直もさらけだす。 直は大きく深呼吸をした。夜の公園の空気を吸い込んだ。夏のなごりの熱を含んだ風が頬を撫でた。握った拳の中にじっとりと汗が滲んでいた。街灯の明かりが理人の横顔を照らしている。 直は理人を見た。隣に座っている理人と目が合った。理人の目はまだ揺れている。七年分の告白をした後の、丸裸になった目。直がなにを言うのか、待っている目。こわいような、期待しているような。けれど期待していることを自分に許していないような、複雑な目だった。 なんのために大阪まで来たんだ。しっかりしろ。 自分を叱咤して口を開いた。
理人はしばらく視線をさまよわせていた。直の目を見ては逸らし、また見た。なにか迷っているのか、覚悟を決めかねているのか。 直は理人の肩を掴んだまま、手に力を込めた。 こわい。理人の口からなにが出てくるのかが、こわい。七年間隠していたことを聞くのが、こわい。七年間隠していたことを聞く。それは、理人と直の関係の土台をひっくり返すかもしれない。管理だと思っていたものが、まったく別のものだったと知ることになるかもしれない。 けれど、聞かなければならない。「理人」 直は再び名前を呼んだ。緊張で声がかすれた。 公園を風が吹き抜けた。木々が揺れて、葉擦れの音がした。夕暮れの光が弱まりはじめている。 理人は、心を決めたように直を見た。まっすぐに。あの目だ。合鍵を返そうとしたときの目。路地裏でキスをしたときの目。エレベーターの中で見た目。何度も見た、感情を閉じ込めきれない目。けれど今は、閉じ込めようとしていなかった。蓋を開けようとしている目だった。「……話します」「うん」 直は理人の肩から手を離した。理人が話しやすいように。 理人は膝の上で手を強く組んだ。関節が白くなっていた。しばらく黙って、それから口を開いた。「俺が初めて先輩に会ったのは……そのパンフレットの、学園祭のときでした」 静かな声だった。けれど、かすかに震えていた。「俺は……人付き合いが得意じゃなくて。大学に入っても友達は少なかったです。その年の秋に、数少ない友達に誘われて、明正大学の学園祭に行きました。友達の彼女がそこに通っていたので」「……うん」「しばらく一緒に回ってたんですけど、途中で友達が彼女と合流して。俺はひとりになりました」 理人がそこで言葉を切った。息を吐いた。当時の孤独を思い出しているような間だった。「帰ろうと思いました。けど、笑い声の絶えない模擬店が近くにあって。気になって、近づいたんです」